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しあの巣

読書やゲームや美術館めぐりなどの日々の記録

"笑い"を追求する男『火花』又吉直樹

#芥川賞 #漫才師

火花

火花

 芥川賞を受賞し、何かと話題になっていた『火花』。読む前はお笑い芸人が芥川賞を獲ったとか、著者は太宰が好きだとか、又吉直樹に関する話題ばかりが耳に入っていた。しかし読んでみればそんなことは些末事だった。”笑い”を追求する人たちの漫才観を見ることの出来る話。
 登場人物は、本気で笑いを目指す芸人「神谷」と、神谷を師匠と呼ぶ少しひねくれた芸人「徳永」で、他の人はほとんど出てこない。この神谷がまたくせ者で、漫才師は面白い漫才が絶対的な使命だと信じ、そのためならなんだってやる人間なのだ。しかし"面白い漫才"とは努力で到達できるものではない。例えば大学受験なら、勉強すれば合格する確率は高まるわけで、もし才能がなかったとしてもがむしゃらに勉強していれば大抵の大学は合格できるだろう。しかし面白さは……どうやったら到達出来るのだろうか。
 神谷は"面白いかどうか"を絶対的な尺度として持っている。面白いなら下ネタだって言うし、観客に喧嘩を売るようなネタだってやってのける。しかしその"面白い"は自分基準であって、他人がどう感じるかはまた別の問題だ。例えば、あるとき神谷は公園で泣いている赤ん坊に自分のネタを披露するのだが、言葉も分からない赤ん坊にネタをやったって通じるはずがない。徳永は赤ん坊に「いないいないばあ」をした後、神谷の行動についてこう考えている。

神谷さんは「いないいないばあ」を理解していないのかもしれない。どんなに押しつけがましい発明家や芸術家も、自分の作品の受け手が赤ん坊であった時、それでも作品を一切変えない人間はどれくらいいるのだろう。過去の天才達も、神谷さんと同じように、「いないいないばあ」ではなく、自分の全力の作品で子供を楽しませようとしただろうか。僕は自分の考えたことをいかに人に伝えるかを試行錯誤していた。しかし、神谷さんは誰が相手であってもやり方を変えないのかもしれない。それは、あまりにも相手を信用しすぎているのではないか。だが、一切ぶれずに自分のスタイルを全うする神谷さんを見ていると、随分と自分が軽い人間のように思えてくることがあった。(p.79)

 神谷は愚直なまでに自分の求める面白さを追求していた。対して徳永は、相手が面白いと思ってくれる方法を探していた。同じ面白さを求めていながら、はっきりと異なる道を歩んでいたのだ。
 ときどき、twitterで「◯◯できる人が心底羨ましい」というpostを見かけることがある。それは技術の有無を意味せず、そもそも◯◯しようとする情熱を羨ましがっているようだ。絵でも、楽器でも、創作でも、それを行う前に「描きたい」「ピアノが楽しい」「創作したい」という思いがあるだろう。何かを楽しむ情熱、心の動きを羨望しているのだと思っている。その気持はいままであまり分からなかったが、神谷と徳永の断絶のようなものだと思えば良いのだろうか。
 神谷は尊い。あまりにも高い理想を掲げ、狂気の沙汰のようなことを幾つもやって、人から評価されないままで、それでも面白さを追い求めている。想像でしかないが、神谷にはおそらく作者の理想が詰め込まれているのだろう。彼の言葉はあまりに直接的で、時には作者が透けて見えるようなときもある。こういったところは少し荒削りだったが、それを差し置いても、理想に生きる人を見ることができたのは、良い読書体験だったように思う。